みらいごと
笠原仙一
情熱に燃えていた友よ
未来を信じて頑張っていた友よ
君が無念の病死をしてから早や十年
肩を抱き合って未来を見つめあった若き頃よ
君に貰った日本国憲法の本に感動して
朝まで国のありようを語りあった若き頃よ
民主主義や自由平等平和の夢を
民主教育や詩人としての夢を語り合った君よ
今のこの俺の 孤独な修行の日めくりの姿
今の この日本の危機
悲しみは深く 時々 一人たまらなく叫び
それでも 六十二歳になっても
時代に置き去りにされた夢見る男のように
思い出すのは君との誓い
・・・
友よ 俺は 若い頃のように
「まだまだ これからだ」とはとても言えない
でもな 俺は
自分の能力のなさに溜め息はついても
俺は 俺なりに
少しずつ努力していくしかない
みんなのために頑張るしかない
「自利利他行」 この言葉を口づさむと
不思議と 心は少し元気が出てくるのだ
生きる喜びすら出てくるのだ
友よ 笑ってくれ
俺が今さら弁解すること自体悲しいのだが
民主教育の夢も 結果は悲惨だったけれど
定年まで追求したことは真実で
頑張ったことは間違いないのだ 許してくれ
詩も 全ては虚しい結果に終わっているけれども
詩集を六冊世に問うて 今も詩を書いて
死ぬまで求め続けて行くことは間違いないのだ
そして退職してからの 地域やお仏壇屋の復興も
漆伝統工芸士になるための修行も
それなりに頑張っていることは間違いないのだ
しかし友よ 大晦日の日に過労で倒れ
死が迫る中で
俺の寿命は期待するほどないのかもしれない
この年での店の復興や漆修行の夢は
無謀な挑戦であるかもしれないと
衝撃的に 心の底から知らされたのだ
あの時
死んだらみんなが笑うだろうなと思いながら
意識を失っていった悲しさよ
正直 俺は何をしているのか
・・・・
しかし友よ 喜んでくれ 昨年(二〇一五年)
一つだけ嬉しかったことが 希望が俺に生まれたのだ
それは 武生九条の会に入れさせてもらい
あの多忙の日々の中で 四〇年ぶりに
街頭演説やデモまでもしたのだ
その時
俺はひさびさに 日本人に希望を感じたのだ
まだ日本も捨てたものではない
俺たちも捨てたものではない
そう感じたのだ
平和を求めて安保法案に反対して立ち上がった人々
国会議事堂を取り囲んだ呻き 怒りの波
こんな武生の田舎町でも俺たちはデモをしたのだ
みんなが手を振ってくれたのだ
反原発運動も
日本各地で あちらでもこちらでも
原発の危機を訴えている人がいるのだ
マスコミが取り上げないだけで
政府や政治が無視しているだけで
知らぬところで頑張っている人が
本当にたくさんいるのだ
みんないろんな悩みや苦しみを抱えながらも
なにくそと思って ひととしての良心のために
日本の未来のために 真理真実のために
頑張っているのだ
俺は去年 そのことを身に沁みて分かったのだ
・・・・
だから友よ
やっぱり俺は このまま 無理をせずに
自分の信ずるところをながく頑張るしかない
君との誓いをこのまま死ぬまで求めてゆくのだ
やれるだけやってゆくのだ
未来の展望もわからず
希望もなく 不安で
何処に流されていくかも分からないけれど
時々 憂鬱に襲われ 体も辛く腰や足も痛いけれど
譲れないものは譲れないのだ
生きのびて 頑張ってさえいれば
きっと何かが生まれてくる
そう未来に手を合わせて頑張るのだ
友よ
拍手してくれ 俺はもう野路英夫氏の詩だ
千年たっても動くな
万年たっても動くな
てこでも動くな
野路英夫
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三島と対峙する死に方を願う
笠原仙一
あと少ししかない命の中で
何を遠慮するのだ 何を臆病がるのだ
このまま流されていくならば
絶望が 怨嗟が日本を襲う
ひととして闘うのだ 声を上げるのだ
滅びの中で座して死を待つか 座して死を待つか
いな いな 否 だ
おー もう
悲しいかな日本人には 美しかった山河もない
文化や誇りは アメリカの独占商業主義に破壊されて
優しくて誠実な人々は 居場所を失い
孤独に泣いている
今にもう日本は
北朝鮮や中国のような軍事独裁国家となり
悲しいほどの格差に満ち
日本の大地は放射能によって汚染が拡大されるだろう
そして 昔あこがれた良心や理性 真理や自由平等平和という世界
日本国憲法の精神などはとうの昔の話となって
我らを嗤うのは
支配するのは襲うのは 人の顔をした餓鬼
ネオナチ輩(やから)
傲慢強欲なテレビやマスコミの輩
我が物顔で泳いでいる腰振るヒラメ
グルメを楽しむ権力者やセレブの世界が広がるだろう
こんな現実のなか 俺はもう意地だけで
片田舎のシャッター街で店を開くが
一流の漆職人 地域文化復興 詩人 ロマン・ロランを夢見て
仏陀を夢見て頑張ろうとは思うが いつまで持つか
あと少ししかないいとおしい命
このまま年老いて病院の中で死を待つか
一矢報いずに死を待つか
いな いな 否 三島と対峙する死に方をひたすら願う
ひたすら手を合わす
年を重ねることへの楽しみ 今年は暖冬と聞いていたのに、突然寒波がやってきた。若い頃は冬も楽しみで、子供たちとスキーにもよく行ったし、雪の降る景色にも心が弾んだものだ。でも、六十を過ぎた今は、寒さが骨身に凍みてとても辛い。その上、年末に過労で倒れた衝撃は大きく、死が目の前に迫ってきた。だから今年は、春への思いが今まで以上に心に切なく募る。
そんな私の春を待つ楽しみの一つに、家の近くの有名な大寶寺の枝垂れ桜がある。そして昨年は大寶寺の御前と桜を愛でながら酒を飲む機会を得た。御前は手を合わせて、「ああ、今年も一年に一度の桜の観音様に出会えた。ありがたやありがたや」と桜を拝んでいた。私はその時の嬉しそうに拝む御前のお姿を思い出すたびに、昔の日本人がなぜ桜をあんなにも愛したのか深く分かった気がした。
それは、死があまりにも身近にあった無常の中で、厳しい冬をやっと生き延びて美しい桜や野山に今年も出会えた喜びは、現代人には想像できないほどにひとしおだったのだろうということだ。息吹に満ちた春の美しい光景が、この世の極楽、死を耐えた終末の中からの光、命の復活のように感じられたのではなかろうか。思えば、日本の伝統的な美の多くは、生の無常、死を強烈に意識するが故に命あるものへのあわれの共感と、永遠への憧れを求めた厳粛な美、凛とした美、解放された自在な境地の美であったように思われる。確かに西行や芭蕉の求めた世界、幽玄も侘びも寂びもかるみも、みなそのような世界であった。
人は、体が元気で豊かな生活に満ちると、つい傲慢になってしまう。本当の美や心の真は、そのような人には寄り付かないのではないか。体が衰え、生活や未来への不安を抱えて生きざるを得ないこれからこそ、逆に言えば、自分の精進次第で、本当の美や生きている喜び、人のやさしさと出会える機会が多くなるのではないか。そんなことをしみじみと思いながら、病み上がりの私には、年を重ねることへの楽しみがまた一つ増えたようだ。
最近、僕の詩的予感は恐ろしく滅びの不安に震えるのだ。
それは福島第一原発の深刻な状況です。
もう、原発の下のセメントが溶ける寸前、いよいよ
溶け落ちた燃料棒が地面の中に落ちていくのではと心配でならないのです。
そしたら、水と反応して核爆発するのではと心配なのです。
とてもではないが東京オリンピックなどしている暇はない。
また、冷やすための水によって汚染水は増えるばかり。薄めて海に流しているらしいが、
東京、北関東すべてに汚染は進んでいる。
原発作業員も800名死んでいるとの情報もあり、
癌発生率が増えるのは4年目からというから、静かに恐ろしい状態が進んでいると思って間違いない。
フアシズム化した政府やマスコミは情報を絶対に公開しないが
隠してももう限界の状況に来ていると思われる。
日本の破滅はすぐそこに来ている。僕は怖れ、不安でたまらないのだ。
日本政府は狂っているとしか思われず、自民党やマスコミもどうなってしまったのか。
このまま滅びを待つしかないのか?なむさん。
滅びの予感に
笠原仙一
夢
幻のように
この強欲な繁栄は
この虚飾の花は
きっと否定される
それは
死がその人のいっさいを消すように
それは
チエルノブイリが消えたように
巨大なツインタワーが崩れ落ちたように
君は聞こえているか
山や海の神の怒り
機械のきしみ
それは滅びの足音
それは地球の悲しみ
それでも驕りたかぶったヒトの化け物達は
遺伝子を切り替え 人工物で肉体を改造し
新しい技術で武装し おのれだけは生きのびようと
おのれだけはより快適な生活を独占しようと
世界を独占しようと暴力を繰り返している
破滅を手繰り寄せている
ああどうしてなのだろう
この地なくして
この地球なくして この故郷なくして
慈しみや良心や愛をなくしてヒトは生きられないのに
必ずヒトは死ぬのに ひとりでは生きていかれないのに
どんなに仮想現実や歌で不安をうち消そうとしても
どんなに欲望を満足させても
こころは満たされないのに
この繁栄は 夢 幻
驕りたかぶった世界に真実はない
価値はない
広がるものは荒廃した鬼のような心の世界
汚染された大地や海や川
僕は眠れない
地球の悲しみよ 驕る人類よ破滅へと一直線に走る人類よ
事実広島や長崎が消えたようにチエルノブイリが消えたように驕りたかぶったこの文明はすべて消え去るのだ夢幻の如くに消え去ってしまうのだ去るのだ ああ僕は眠れない 死がその人のいっさいを消すように 確かに広島や長崎は消えたのだチエルノブイリは消えたのだ 傲慢なすべてのいっさいが消える そんな予感に僕のこころは震えて眠れない
詩集「月の夜の詩」より
これからの我らは
笠原仙一
私はこの武生の地で、退職後の残り少ない人生を、少しでも、漆職人、詩人として貢献するとともに、反原発・日本国憲法を守る運動をしながら、自利利他行、ロマンロランのように生きたい、と願ってきた。そしてやっと一月から、金森先生の勧めで武生九条の会に入り、毎月九日の武生駅前での街宣行動、四月からは、戦争法案反対丹南市民の会を結成して、弁護士を招いての学習会や落合恵子講演会の開催、戦争と平和を語る集い、蔵の辻での戦争法反対集会とデモなど、仲間とともにやれるだけの行動はしてきた。感謝感激である。しかしそうは言っても、参議院で強行採決され、安保法案は可決されてしまった。残念至極である。
しかし、この結果は、当然以前から予測されていたことであって驚くことではない。もう以前から、憲法の空洞化は進み、実質日本は、自由・平等・平和・基本的人権を求めた平和国家から、帝国主義的軍事独裁国家(アメリカ・国家・大企業・軍需産業・政治家・金持ちが自由に支配する国)へと変貌しつつあるのだ。その上、我々一般庶民は、福島などのように生存権すら奪われて、なお且つ、消費税、マイナンバー制度、派遣法などで、もう根こそぎなけなしのお金すら奪われる寸前で、格差社会のどん底へと突き落とされようとしているのだ。これから政府は、今度の想定外の国民的な安保法制反対大運動の衝撃から、憲法と9条をなんとしても撤廃するために、更なる操作扇動、脅し、統制強化を企てるだろう。冤罪逮捕や中国との騒動、事件等も意図的に起こすかもしれない。これからの我々の憲法九条を守る闘いは、このような状況下で行われるのだ。しかし、我々は、このような鬼のような政治や体制、集団に対して怯えてはならない。何故なら、まだ我々には憲法や9条があるのだ。世界の真理、人類の共通の願い、正義・良心が錦の御旗として我らにあるのだ。悪は政府だ。
だからこそ我々は、爽やかに明るく笑い、語り合い、行動するのだ。憲法を守る、ただそれだけを合言葉に、非暴力の抵抗、抗議やデモをし、心は皆とともに生き、励まし合い、今度こそ本当に日本国憲法を生活に生かすために頑張るのだ。そして、できるだけ早く、中国の脅威などの扇動や経済や原発に対しても、日本国憲法で許す専守防衛、外交、経済や原発政策、他など、全てを網羅する救国的な方針を堂々と提示して、沖縄のように政府と対峙するのだ。それしか、滅びかかった我らの日本が生き延びるすべはもうないのだ。絶対に日本国憲法という錦の御旗を倒されてはいけないのだ。死んでも。
日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会機関紙福井県版に掲載された文章。